20.信心は切符であるか
『聞くたびに珍らしければほととぎす、いつも初音の心地とぞすれ』。
すべて自分が熱心に好きなものとなると、何度同じことを繰り返しても飽きる気持ちは起きません。ホトトギスを楽しむ人々は、何度聞いてもその度ごとに、いつも初めて聞くような感覚がするというのです。
これは源俊頼朝臣が詠んだ現在の詩であります。法敬坊も、90歳まで生存し、この年まで聞き続けてきましたが、これまで知らなかったことです。
飽きることもないと述べているように、今はホトトギスどころか、自分が仏になる理由の話です。どうか皆さん飽きずに明解し、理解が深まるまで聞く心を持っていただきたいです。
さて、ここまで一流の安心の体験、すなわち「南無阿弥陀仏」の六字について述べてきました。六字一つの働きには、回向も摂取も助けも、すべて含まれている全行円備の嘉号であるからです。
その助けの六字は、この機会に届いた一念に、こちらから出す信相ではない。届いた六字の働きで、雑行も捨てて弥陀も頼り、自力も離れて安心も得られることから、信心というものも安心というものも、すべて六字の外にはないということは、十分に話しました。
しかし世の中には、どうにも信心と助けを分けてしまう。信心で助けを引きつけるか、信心と助けを交換するような考えを持っている。時として、この信心や安心を、電車や船に乗る時のチケットに例えて話す人がいます。
その例えの要点を言ってみると、電車に乗るにはチケットが必要、チケットがなければ電車には乗れないように。助けの電車に乗るには、必ず信心のチケットが必要である、たとえチケットを持っていても、自分で作ったチケットや、向き違いのチケットでは通用しない。
必ず上から与えられたチケットである必要があり、しかも京都へ行くなら京都のチケット、奈良へ行くなら奈良のチケットと、間違いのないものでなければ通用しないのです。
たとえ信心があるとしても、その信心が凡人の自力で作ったものや、十九・二十の信心で、浄土への行き先のチケットだとしたら、真実の報土の往生は叶わないでしょう。このために祖師聖人も、真実の信心一つによると仰せられています。自力の偽物では通用しない、必ず他力の回向の真実の信心を得なければなりません。
さあ、皆さん、その信心があるのかないのか。そして得たと思うその信心が、もしも自力の信心や、十九・二十の方角違いの信心ではないか。ここが重要な吟味の場所であると述べているのです。
この喩えは一応聞けば納得できるもので、何の間違いもないように見えるからです。私もかつてこの喩えを持ち出して講演したこともありますが、よく考えてみると、この喩えは浄土真宗の信心安心に合わないような気がします。
確かに譬喩は一部と言いますから、肝心な部分が一部合っていればそれで良いと考えられますが、信心をチケットに例えると、一部どころか全体が合わないばかりか、ある意味から見ると、機法一体の真宗の正意を損なうばかりか、何とも狂気じみたことになるように思います。
それにより私は自分の信仰の持つ意義を、これから話してみます。ぜひ皆さんも心を開いて聞いていただき、もし私に間違いがあるか、または皆さんが理解できない点があったら、遠慮なく私に教えていただきたいと思います。