30.乗せられた信相
さて、この五乗院様のお話は理解できますか。
実に奇抜と言いましょうか、深遠と言いましょうか、他力教の驚くべき不思議と信じられる一念の究極を、細かく説明してある教えです。
私から始めて、漆で塗られたような強固な信仰をこの機に求めて、今度こそはこれで決定し、今日こそはこれで往生すると決心し始めます。
決心するから動き出すし、動き出すから再び決心します。決心し動き、動いては決心する。
この揺れ動く心を自分の相手にしている間が、自力の行為です。
しかし、この揺れ動く心を如来様の相手にしてみれば、このままの心を助けてくれるのが弥陀の呼び声です。
「こんな話を聞いたらそんなに悪いことでもないだろう」と。悪いどころか、こんなものでも助けてくれると真剣に受け取れば大騒ぎです。
落ちる自分を救わずにおれない手が差し伸べられます。逃げるこの身の力より、逃がさないという誓願の力が強い。
逃げも隠れも出来ない身になる、それが不思議な法則で、それが弥陀の六字の呼び声です。
「嫌なら早く断ること、遅れて断ると仏になるぞ」と。
何と奇抜な教えでしょうか。断るのが遅くなるとどうして仏になるのでしょう、ここの意味を理解できますか。
ただの六字やただの呼び声だと、聞いても信じても受け取っても、凡夫が仏になるような、特に騒ぎは起きません。
しかし、弥陀の呼び声に関しては、名と体が分離しない不思議な力があるからこそ、仏が声で、声が仏。呼び声そのままが救済の船となり、耳に聞こえて心に伝わる。
これは嘘ではないと信じられ、真剣に受け取る一念があれば、誓いの船に乗せられ、親のように抱きしめられてしまうのです。
本当に嫌なら早く断ること。断るのが遅れてしまったら、鬼のような身体でも正定聚(仏の仲間)になる。
一念は、自分で起こす一念ではなく、法が伝わった一念が、信相として現れるのです。
喜びがあっても、早く後念(往生の意志)があっても、喜びがなくても、往生に失敗できません。
失敗できない往生と、決定した信の働きで、喜びの味が流れ出て口から零れる念仏報謝の末までが他力の恵みです。
ですので、当派の「能機の信相」というのは、乗った客の心で立つ信相ではありません。乗せた六字の船の働きが、乗った客のこの機の上に映し出される形を信相と言うのです。
往生が確定するのも船の力、救いが決まるのも船の力。願うもたのむも任せるも、自力を捨てるも世話の必要がないのも、安心が出来たも疑いが晴れたも乗ったこちらの心で決める信相ではない、乗せた六字の船の力です。
思う思わぬの世話が不要、一度に全てを具足する信相です。
そのため、乗せた誓いの船が、万が一沈んでしまったら、一緒に信相も、一瞬で消滅してしまいます。
そのため、往生が確定するのも救いが決まるのも、結果があったなればこそ。願うもたのむも消え失せて、元の生死の凡夫となります。
この世の船なら沈む恐れもありますが、心に届いた六字の船は誓いの力が無限の船だから、波風がどんなに強くとも、沈むことも失うこともありません。
動かない心と動かない六字の働きがあるからこそ、動き続けるこの機の上に、動かない信相が現れ、正定不退の身となるのです。
五帖目十三通を読んでみてください。
『されば信心をとるというも、この六字のうちにこもれりとしるべし、更に別に信心とて、六字のほかにはあるべからざるものなり』。
又次に
『この故に南無阿弥陀仏の六字の相は、我等が極楽に往生すべき相を顕わせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば安心というも、信心というも、この名号の六字の心を、よくよく心得るものを、他力の大信心を得たる人とは名けたり』
これらが示されているならば、信心は確かに六字名号の働きと理解することは、明確に理解できたでしょう。そこで、その船に乗った機を述べれば、その具体的な形は多種多様となります。