安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

48.力なくして往生

 

さあ皆さん、この話をよくお聞きいただけましたか。話し自体は面白くないかもしれませんが、実際の意味や効果は重要ではありませんか。

 

鬼や悪魔に捉えられても、自分の力で抵抗できなければ、仕方なく従わなければならない時がある。

 

しかし今は、大いなる悲しみを抱えた親様の偉大な力により、不思議な六字の助けを受けている身です。

 

心から信じ、従い、安心して確定する信念が、間違いなく阿弥陀仏の働きによるものであることを喜びます。

 

しかし、このような絶対的な不思議な力で、逃れずにいなければならない自分の真実を見つめると、私はなかなかの策略家で、『悩みの故郷を捨てがたく、まだ未来の安らぎの地は望まれない』という思いがあります。

 

極楽へ行くより迷っていたい、沈むより浮かびたい、それがこの身の性質なので、この六字の力に守られているから、地獄に落ちたいと思っても落ちられず、あまり望んでいない浄土へ行かざるを得ないことは厄介です。

 

何とかして生きた仏の化物の、六字を追い出す方法はないかと思います。(皆さんは喜びの相談だと思うでしょうが)。恐ろしいことに、私は毎日、仏を追い出す計画に取り組んでいます。

 

私の地方では、いくら強気な客でも、ほうきを立てると逃げていくので、私も仏にほうきを立ててやろうかと考え、普通のほうきでは驚かせられないので、

 

八万四千の煩悩のほうきを立てて、朝から晩まで念仏も言わず、感謝もせず、煩悩のほうきで騒いで暮らして、仏も我慢できずに消えてしまったのではないかと思います。

 

しかし、夜中に胸を覗いてみると、私を護る呼び声が明確に残っているので、この化物がまだ消えていないのは困りものです。どうにかして浄土へ行かなければならない。

 

今度は一つ思い切って、毒をかけてやろうかと、私が仏にかけた毒は、モルヒネや硝酸のようなものではなく、三毒という強力な毒です。

 

これは仏に効く毒で、少しでもかけると逃げてしまう毒です。

 

阿弥陀様にも効くでしょうが、効果が足りないと困るので、三毒に五欲を調合して、一日中お参りもせず、三毒五欲を使って仏の頭に毒をかけて暮らすと、仏も消えてしまったと思い、枕を持って床に入り、胸を撫でると、間違いなく六字が胸に残っているのが分かります。

 

これは厄介な問題で、どうにも解決できない。煩悩を払う方法も効かず、様々な試みも無駄だった。

 

もう手立てがない、今度は最後の手段として食料攻めを試そうかと思った。

 

でも、阿弥陀様にはご飯をあげない、というのも私の浅はかな行為だ。自分の食べるご飯は三度三度おかわりしているのに、仏様には一日にたった一度のお供え、それさえ忘れてしまう。これこそ真の食料攻めだろう。

 

時々のお供え物を置いて、そのまま放置するような行為。こんなぞんざいな供養をすれば、気の強い仏でも我慢の限界だろう。

 

怠惰な生活の後、心の中を覗くと、救いを求める声が聞こえるようだった。この驚くべき事態に、もうどうにもならない、計画も抵抗もすべて尽き果てた。ああ、もう死んでしまう、死ぬしかない、と叫ぶよりほかない。

 

皆さんも世間で、「あの人は死んだ」とか「この話は死んだ」という言葉を聞くことがあるでしょう。どういう状況で死んだと言うのか、考えてみてください。

 

手が尽きた所で使うのが死ぬという言葉です。この世の話し合いは成功するか失敗するか、解決できればまとめることもできます。

 

本当に手の尽きたことはない私ですが、未来の問題については、本当に手強い阿弥陀様に、今回は本当にやり込められました。

 

これ以上は、恥と後悔、無駄にしたことへの反省が残るだけ。そんな絶対的な手柄を知らずに、悪魔のようなこの機会を、化粧して親を欺くつもりなんて恥ずかしい。

 

今は「聴聞の化粧部屋、津波に遭う心だ」と思う。全裸でさらされるこの身、後生は弥陀に任せ、残りの世間生活は油断せず、間違った見方に流されないようにしましょう。

 

外では国のため、内では家族のため、すべて感謝の心で行動しましょう。命がある限り、勇気を持って努め、真実と俗世の二つの真理の教えを生涯の使命としましょう。念仏の継承をしましょう。

 

次の記事: