安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

46.保つ所の仏智を募れ

 

何よりも、一日中六字(南無阿弥陀仏)の教えに夢中になっています。

 

信仰も六字、安心も六字、助けも六字、往生も六字、最も重要なことでさえ、生きた仏の親と呼ぶことがあるのです。

 

ところがある同行者が私を批判して、「あの人は仏の体を嫌い、六字に夢中で、まるで浄土の仏の足を挙げて語っている。彼は一種の法体募りに違いない」と言ったそうです。

 

確かに六字の教えを重視しているのですが、それは感謝の気持ちに過ぎません。頼むのは私の役目で、助ける仏は阿弥陀様。仏と衆生が向かい合って往生の問題を解決すると理解しています。

 

何を言っても納得しない同行者もいますが、私が仏の体を嫌うなんてどこにそんなことがあるでしょうか。

 

逢いたい、見たい気持ちは強いけれど、煩悩に障られて逢うことができないのは仕方がない。この逢えない私に、親様は逢いたくなるのです。内証の功徳や外相の功徳など、すべての力があるのです。

 

結局、知恵や功徳、手足も、名号六字に含まれています。私たちの耳に届く万行円備の六字を、足りないと批判する人々が、むしろ仏の足を挙げているのではないでしょうか。

 

六字以外に何かあるといえるのでしょうか。もしそうなら、祖師や蓮師も六字募りであり、全体の聖教は六字募りと言えるでしょう。

 

法の厳格さを批判する人々がいますが、彼ら自身が誤った方向に向かっているのかもしれません。

 

何よりも、助けを求めず親の助けを確信しているような異安心を法体募りと嫌うのは、自分たちの大切な助けを受け取らないからです。

 

大金持ちの親の身代が自分に譲られていると勘違いしているようなもので、大事な身代が受け取られていなければ、出かける際の交通費もない状況です。

 

法体募りと嫌うのは、この機に受け取らなければならないものを受け取らないからです。言いたいことは、他人に向かうのではなく、自分の持つ仏智に向かうべきであるということです。信仰を深めてみれば、信心が整うでしょう。

 

「往生に対する信心は確かですか?」という質問に対しては、「確かにある」と答えます。六字がそばにあるからです。

 

「疑いは晴れましたか?」という質問に対しても、「晴れている」と答えます。六字によって確信を得ているからです。

 

「雑行や自力を捨てて、弥陀に頼り切りますか?」という質問にも、「ある」と答えます。六字の力で自力の余地はないからです。

 

最後に言いたいことは、六字の教えをしっかりと受け入れ、心から信じ、それに従って生きることが最も重要である、ということです。

 

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