安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

47.ねずみ小僧のたとえ

 

さて、これまでにもお話ししてきましたが、本願他力の不思議な力、悪を造り善のできない私たちが、たった六字の名号を信じることで、正しい信念を持つことができる。

 

人生の終わりには、最上の証を開かせていただくことができる、この絶対的な方法は、南無阿弥陀仏の六字にあります。

 

この六字が私たちの心に留まることで、仏の知恵が働き、自力で弥陀を頼らず、安心も決定も往生も、六字で足りることを皆様も実感されたでしょうか。

 

それについて私は、いつも思います。阿弥陀如来が、私たちを助ける絶対他力の働きは、まるでねずみ小僧が泥棒をするようなものではないかと。

 

仏様を泥棒にたとえることは、本当に失礼なことですが、絶対に不思議な働きには比喩するものがありません。ねずみ小僧のように、思いもよらない方法で助けて下さるのです。

 

下品な言葉を一旦忘れて、私の信仰の熱い気持ちを聞いていただきたいのです。

 

昔、ねずみ小僧という泥棒がいました。非常に困った泥棒で、特にこのねずみ小僧は、魔法で小さな鼠に変身することが得意でした。

 

このねずみはただのねずみではなく、ねずみ小僧の化物で、家中の財宝を全部奪い去ってしまう泥棒でした。

 

今、この例えは非常に失礼なことですが、阿弥陀如来が私たちを助ける絶対の働きは、この例に似ています。

 

阿弥陀如来は、非常に広大な身体を持ち、私たちの煩悩に満ちた心に忍び込むことはできません。

 

しかし、阿弥陀如来の奇跡の力で、その光明の姿のまま、形を変えて私たちに迫り、南無阿弥陀仏の名号によって助けて下さるのです。


たとえどんなに罪深い人間であっても、名前を一度呼ぶだけで、阿弥陀如来の教えが小さな穴からしみこんでくる。

 

この六字はただの文字ではなく、阿弥陀如来の化身であるため、三毒五欲の罠にはかかることがない。この六字に取り込まれたら、私たちの罪が一瞬で奪い取られてしまう。

 

私たちの罪とは、無始以来積み重ねた悪業と煩悩で、これがあれば地獄へ行くことも餓鬼になることも自由にできた。

 

しかし、この六字が聞こえたら、その迷いの財産は一瞬で消え、困惑しても仕方なく、迷いや沈没の心配がなくなる。それが正定不退の状態である。

 

この話はねずみ小僧と阿弥陀如来、善悪の違いがあるが、手段の方法は似ているところがある。

 

ねずみ小僧は人の家に忍び込んで財産を奪うが、阿弥陀如来も心に忍び込んで罪を取り去る。ねずみ小僧は逃げるが、阿弥陀如来は一度宿ったら二度と抜け出さない。

 

これからは、六字に近づかず、貪欲や怒りで罪を積もうとしても、一度摂取されたら捨てられないことを忘れずに、油断せずに過ごすべきである。

 

阿弥陀如来が取り去った罪は仕方がないが、一日欲を起こして難儀し、餓鬼や畜生の種を作った後にも、すべて取り去られてしまう。

 

最終的には、稼ぐ心まで六字の力に捕らわれ、思いがけない浄土へ行くことになる。往生が一定して助けられる道以外なく、絶対他力の味わいは説明しきれないものである。

 

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