17.廻向は六字なり
火のことをどれだけ詳しく聞いても、体が焼けるという経験はありません。水の特性をどれだけ深く理解しても、手足が濡れることはありません。
しかし、阿弥陀如来の仏体、その威徳の不思議さを讃嘆する言葉を聞き、心に響いた一念で、悪人であっても救われるとは、まさに信仰の難しさを示す教えです。
このような難しい信仰こそが、十方の諸仏が口を揃えて証明し、讃嘆する理由なのです。私自身も、十七の願いが示す位置にいながら、阿弥陀如来の偉業をたっぷりと讃えたいと思います。
また、十八の願いの位置にいる皆様も、真心からの信仰ができるまでしっかりと理解していただきたいです。
阿弥陀如来の本願を一言で表すと、それは与えて助けるという意志以外の何ものでもありません。与えることが回向の意味で、助けることが摂取の意味です。
この回向と摂取は決して別のものではありません。回向しなければ摂取はなく、摂取しなければ回向にはなりません。
つまり、救い上げるという意味です。この摂取の網こそがその行為であり、その行為の摂取の網が私たち凡夫に南無帰命という形で示されています。
「網をかけなければ、何の阿弥陀仏か」という誰かの詠んだ狂句のように。阿弥陀如来は大きな猟師で、十方の衆生全てに摂取の網をかけるというのが回向の願心です。
これを祖師聖人は、『如来の作願をたずぬれば、苦悩の有情をすてずして、廻向を首としたまいて、大悲心をば成就せり』と賛美し、一つ一つの誓願は衆生のためだと説きました。
弥陀が困難を背負ったのは楽しむためではなく、衆生を楽にしたいと考えての苦労です。一つの願いを発したものも衆生のため、一つの行いを積み重ねたものも悪人のためです。
積み上げた功徳は山のように、集めた善根は海のように、海も山も比喩できない弥陀の代価が得られます。これを浄土の装飾物とするだけでは、大悲の心は安まりません。
どうかこの代価を苦悩する有情に譲りたいと思うのですが、衆生の能力が未熟すぎるため、また、与える功徳が大きすぎるため、与える道がないのです。これこそが阿弥陀如来が特に苦労したところです。
土地を与えようと言われたときのことを考えてみましょう。
私は田地がほしいの、山林が欲しいと希望しては居るものの。国土を残らず与えるぞといわれたらどうでしょう、私はとても受取ることは出来ません。
是非共貰わねばならぬ場合になれば、私は夜逃にするより外はありません。なぜならば国土を下されても、私は三日と維持出来ぬか、忽ち殺されてしまいます。
これは一つの譬ですが、今、阿弥陀如来より我等に下さる身代は、一国程のものでしょうか。十方諸仏の御浄土の身代一時に集めたより、まだも大きな弥陀の身代を。国一つでさえ夜逃にしても受取れぬような、我々にどうして廻向が出来ましょう。
廻向が出来ねば出来ぬまんまに、放って置かれる弥陀ならば、心配はないでしょうが、頂く私たちは無心配。下さる彼尊(あなた)は大心配。どうしたならば下根最劣の我々に、無上甚深の功徳善根を譲られようかと思われる。
ここで三世十方に並びのない、易行至極の御六字に、二十九種の荘厳功徳を残らずこめて、呼んで聞かせて与えて下されたが発願廻向の御手柄であります。
可愛や一人の道楽息子、何処と居場所の定めもなく、迷いに迷いを重ねている我子に迷う親心、老先短い存命中に、身代残らず渡してやりたいは山々だけれども、家や田地がそのまま持ち運びは出来もせず、
とはいえ遺言状ぐらいでは気がすまず、どうにか身代を手渡しにしてしまいたいの考えから、家も田地も道具も残らず銀行へぶち込んで、一億円の手形を振出して貰うのです。
親類の確かな人にその手形を持たせて、息子の行末を尋ねて廻らせた。息子は道楽の果てに病み患い、独り苦しんでおるところを尋ね出したる親類の人。
こりゃ息子殿、お前の親より預った手形をここで渡しますぞと、懐中へ投込まれた一枚の紙。これはと息子は手に取りて、よくよく見れば一億円の為替手形。
届いた時が家も田地も諸道具も、一時に我物になったとき、是さえあれば大丈夫と、頂いた時が助かったとき、助かった時がたのまれたとき。たのまれた時が安堵のとき、安堵の時が嬉しいとき、それは一念同時である。
今阿弥陀如来の親様は三界二十五有生に、何処と居場所の定めなく、迷い苦しむ私に。身代残らず手渡しに、してやりたいと思われるけれど、荘厳が荘厳のままでは譲られず、功徳が功徳のままでは与えられないため、浄土の功徳荘厳のありったけを、振込んで下された銀行が十七願。
その十七銀行より振出されたが、南無阿弥陀仏の六字の手形。親類の諸仏菩薩に手形を持たせ、後生一つに病み患い困り果てたる私を尋ね出して、
こりゃ衆生大悲の親の下されもの、これをお前に渡すぞと、耳の底まで投込んで下されたが六字の手形よくよく聞けば安買い六字であらばこそ、願行具足の一億円、これで不足はなかったと。
信ぜられたるその時が、親の身代を貰ったとき、貰ったた時が助かったとき、助かった時がたのまれたとき。
歓喜も、安堵も、決定も、一念同時に出来上り、往生一定御助け治定、平生業成不来迎、自力を捨てる、疑い晴れる一心帰命、二種深信。
言葉の数は山々でも、仕事がいろいろあるわけではない。六字一つの御廻向で、残らず満足して見れば。なんぼ道楽息子でも、病み患いは仕方もないが。
受けた御恩へ対しても、これ以上、非道はせられまい。たとい煩悩具足でも、妄念妄執の起るのは仕方がないとして見ても、念仏申す口じゃもの、御恩の重いこの身じゃもの、すがたかたちにあらわして、無理は出来まい非道はすまい。
王法仁義を初めとし、親子兄弟夫婦、主人ぶりして無理するな。我身は家来と思うても、大悲の親の一人子で、未来の兄弟にはなさけをかけて、浄土参りの道連に、貰うた六字をわけてやり、共に御慈悲を喜ぶが、御恩報謝の経営である。