15.たのむ仏は何れ
仏を拝むことと、六字を聞くことは二つではなく一つで、まるで滅除薬(万能薬)のようです。
声が薬で、薬が声で、仏が六字で、六字が仏だと理解できます。仏の姿に出会うことも六字を聞くことも同じだからです。
書物には、名号を聞くことと、阿弥陀如来を信じることは同じだと説かれています。
その名号を聞くと、生きとし生ける者が阿弥陀如来を信じる理由も、信じる者を救う仏も、全て六字に結びついて一つになっているからです。
一心安心の状態は、我々が自分から出すものでも、西方から新たに得るものでもありません。尊い知識者から聞く六字そのものが一心安心の状態だと説明されています。
私が越前の坂井郡の名高い性光坊に、蓮如の追悼会に出席したことがあります。その地方は小さな地域ですが、仏教の教えがとても盛んでした。そこは蓮如上人から特別に御文を授かった性光坊の由緒ある地でした。
そして、夜は、全員が通夜を行っていました。私に説法を求められたのです。私は最初に、一緒に懺悔しましょうと提案しました。全員が一斉に懺悔の言葉を述べる様子は、とても練習ができていました。
それで私は言いました、「皆さんが美しく懺悔したのは素晴らしいことです。しかし、ただ述べた懺悔の言葉だけでは救済は叶いません。皆さんが述べた心をお互いに見つめ直さなければなりません。もし疑問があれば遠慮せずに聞いてください」と。
すると、一人の人が、「どうか皆さんに問いかけてください」と言ったので、「では、私から質問させていただきましょう。
さきほどの懺悔の言葉で、皆さんが一心に阿弥陀如来に私たちの次の生を救ってくださるようにと願いを述べました。
皆さんが本当に阿弥陀如来を信じていることは間違いありません。しかし、その阿弥陀如来という存在は、皆さんがどこに思われますか?」と尋ねました。
私の左に座っていたおばあさんがすぐに答えて、
「阿弥陀如来様はお仏壇の中にいると思っています」と言いました。
その時、同じ年齢くらいのおばあさんが右から出てきて、
「お寺にいる仏様だと思っています」と言いました。
私もその二人の言葉には少し驚き、
全員に「皆さん、これで良いのでしょうか?」と確認しました。
次に、堂の中央あたりにいた老父が、
「確かに堂や仏壇に仏様はいらっしゃるだろうけれど、助けて下さる仏様がそんなに多いはずはない。天にも一体の仏、地にも一体の仏と言われていますから。よりによって遥か西方の十万億の浄土にいらっしゃる、今ここでの親様が助けて下さると感じています」と語った。
まるで親様を遠い場所へ送り出したようだ。
そこで私の目の前にいた盲目の老人が、
「確かに親様は西方にいらっしゃるでしょう。その仏様が尽十方無碍光如来と言われ、大空の中にも大地の底にも満ちていらっしゃると聞いています」と返答した。
とても大きな仏様だと思いますが、一般人と接する相手には見えないと思います。
そこで、七十歳ほどの老婆が前に進み出て、
「助けてくれる親様は私の心の中に住んでいらっしゃると思います」と短く答えた。
やっとこちらに近づいてきたと思い、さあ皆さんはどう思いますか?
他に違った意見のある方はいませんか?と尋ねましたが、もう返答する人はいませんでした。
それにしても、仏法が盛んな地域でこのような理解の仕方を見ると、本当に残念なことです。多くの人々が集まったからと言って仏法が盛んとは言えません。
たとえ千人、万人が集まり、忌の通夜をにぎわしても、重要な理解がバラバラでは、蓮如上人は泣いていらっしゃるでしょう。
一つ、私たちを助けてくれる仏様を考えると、相手の仏が何体出てきたか数えてみてください。仏壇の仏、堂の仏、浄土の仏、世界中の仏、心の中の仏、まさに五通りの仏が出てきました。
大事な仏様を頼むのに、このように不確かで、何が何だかわからない理解では、頼むこと自体が不可能で、それこそ無茶な頼み、空の頼みと言わざるを得ません。
皆さんは笑っているかもしれませんが、それは他人のことを笑っているだけです。あなた方はどの仏様から助けを頂いているのか、しっかりと考えてみてください。
結局は無茶な頼みをする仲間ではないですか。大事なことですから、しっかりと聞いてください。私も自分の信仰の深さを、しっかりと話しましょう。
まず、堂や仏壇の絵像や木像から、私たちが助けて頂くわけがないことは、皆さんもよく理解しているでしょう。
助けてもらうどころか、火事になったら反って私たちが助けなければ、焼けてしまう仏様です。
しかし、絵像や木像が不要だと言っているわけではありません。それらは敬意を表すために大切に扱うべきものですが、それは一旦別の問題としておきます。
ここで浄土にいる仏と、世界中に満ちている仏と言われたことについては特に違いはないでしょう。
尽十方無碍光如来と言えば、世界中に満ちていることは当然です。しかし、そのような広大なことを言っても、法性の理仏に紛れて、私たちが対象とする仏様については、関心を持つ話ではありません。
その普遍的な光明も、元々は安養界に顕現された仏体から出ているものです。だから、あまりにも巧妙な話はやめにしましょう、単に西方浄土の仏体と言っていただきたいです。
私たちが救われる親様は、この西方浄土の仏体以外には存在しないということは、誰もが納得できるはずです。具体的には、韋提希夫人の例をご覧ください。
彼女は仏体を拝んで救われました。しかし、私たちが韋提希夫人のように、仏体から直接に救われることができるでしょうか。
これが大いなる疑問点です。韋提希夫人は釈迦如来の力があったからこそ仏体を拝めたのですが、私たち凡人はどうあっても仏体を拝むことはできません。
遥かな浄土に仏体を持っていて、安心しようとするからこそ、救いを求める一念に困難が生じたり、心の動きや、振り向く思いに修行が必要となるのではないでしょうか。
このあたりの問題は、誤った見解や我慢の心から離れて、じっくりと考えてみる必要があります。
また、阿弥陀如来の親様は、自身が浄土にいて衆生が娑婆におり、阿弥陀と衆生と親子の間に大きな隔たりを設けて救うという、遠慮深い本願を立てていません。
第十八の願によって全方位の生き物を救う前に、第十七の願を立てたことを忘れてはいけません。
十二、十三の本願によって作られた仏体で、直接に全方位の生き物が救われるなら、名号成就は必要ないこと。救われる者の苦しみよりも、見ている親が耐えられない。救いに行きたいと思っても、五十二段の差があるため、とても生き物に近づくことはできません。世にも比べるもののない本願が第十七と第十八の願です。
仏として生きた存在の実力が、名号六字に功徳を込めて、全方位の生き物、全ての生き物、その名号を一度聞くだけで、信心が喜びに満ちて往生を得ることができるその六字に救いを求める機もあり、救ってくれる仏も存在します。
仏体を拝んだ韋提希夫人も、六字を聞いた私たちも、さらに変化があるならばこそ。
紙幣を持ったものも金を持ったものも、同じなら紙幣で取る、紙幣は使うのに便利です。仏も六字も同じなら、遠い仏にすがるより、近い六字で事足ります。
六字で得た幸せは、朝から夕方まで使い、口から零れる称名が、感謝の行となる以上、日々の生活の中からでも、惜しむことなく使って損はありません。
この世を経て未来まで、目を見張るような利益が得られるのは、安心を得た一流の信念を決定した身の幸せです。