安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

14.拝む仏と聞ゆる仏

これまで一流の安心というのは、南無阿弥陀仏の六字の形だと話してきました。

 

この六字の名号と西方浄土の仏体との関係が、「名体不二不離」という不思議な表現があることを話してきました。

 

この「名体不二」の特徴から考えてみると、「仏体は礼拝する仏、名号は聞く仏」と言っても問題ないでしょう。

 

これは教えからも、儀式からも、さらに実際の現象からも確認できます。確かに礼拝する仏と聞く仏が存在することは明らかです。

 

曇鸞大師の論註下巻の讃嘆門の解説の部分に、「如彼如来明智相」と「如彼名義」という本論の言葉を通じて、光明と名号の二つを並べて解説しています。

 

まず弥陀の仏体から放たれる光明を通じて、全ての生命の迷いの闇を破ることを述べ、次に弥陀の名号も生命の闇を破り、さらに願いを満たす力があることを説いています。

 

この中で仏体には、光明と親しい闇を破る一つの力を挙げ、願いを満たす力を省略していますが、名号には、丁寧に闇を破る力と願いを満たす二つの力を示しています。

 

闇を破る力とは、堕落しない力、願いを満たす力とは、参加させてくれる力のことです。

 

つまり、生きて光り輝く仏体には、堕落する生命を抱きしめ救う力があり、聞こえる名号にも堕落する私を抱きしめ参加させる恵みがあることを明確に説明しています。

 

これを我が祖師聖人は「無碍光如来の名号と、その光明智相は、無明長夜の闇を破り、衆生の志願を見て下さる」と賛美しています。その中に、一つの問答が設けられています。

 

問ひていはく、名をば法の指となす。指をもつて月を指すがごとし。もし仏の名号を称するにすなはち願を満つることを得といはば、月を指す指、よく闇を破すべし。もし月を指す指、闇を破することあたはずは、仏の名号を称すとも、またなんぞよく願を満てんや。

 

言葉が難しくて理解しづらいかもしれませんが、「名は法指」というのは、名前というものは、何であれ、それが指し示すもので、月がそちらに出ていることを指で示すような、指の役割と同じようなものです。

 

月が見つかれば、指を使う必要はありません。同じように、物がわかれば、名前はどうでもいいということです。名前はつまり仮の法則です。

 

しかし、仏の名号と同じように、闇を破り、願いを満たすことができるなら、月を指す指が月と同じように闇を照らすことができなければならないでしょう。

 

しかし、指だけで明るくなるはずがないので、仏体を指し示す名号で闇を破る、願いを満たすということはあり得ない、という質問が出されています。

 

簡単に言うと、「仏体によって救われるのは理解できますが、名号によって救われるとはどういうことですか?」と問いかけられたわけです。その回答については

 

諸法万差なり。一概すべからず。名の法に即するあり。名の法に異するあり。

 

これから詳しい答えを提供しますが、最終的には滅除薬の例えを使って結論を導きます。この滅除薬の例えは、首楞厳経に述べられていて、世にも珍しい薬です。この薬は、どんな病気でも、一度服用すれば必ず治る特効薬です。

 

しかし、ここに重病人がいて、喉から下へは何も通らなくなってしまいました。治療薬はあるのに、薬を投与する方法がないのです。現在では注射法もありますが、昔はその方法がなく、どうしようもなかったわけです。

 

ここで滅除薬の不思議な点が出てきます。飲むことができない患者には、耳で聞かせて治します。どうやって聞かせるかと言うと、薬を鼓に塗り、その鼓を病人の近くで叩くのです。そうすると病人はその滅除薬の鼓の音を聞いて、病気が治るのです。

 

このように、薬が音であり、音が薬で、薬を飲んだ者も、音を聞いた者も、同じ効果があるのが滅除薬です。

 

今、阿弥陀如来の奇跡も、この例えと同じようなものと言えます。輝く仏体を見るだけで、無明業障の病が治り、すぐに救われる尊い仏様なのです。しかし、飲むことができない重病人とは我々のことです。

 

仏を拝みたくても、生盲闡提の病のためにそれができない我々は、救われることはできないのでしょうか。ここが弥陀の特徳、六字の奇跡、見ることができない盲人たちには、弥陀の仏体の功績を鼓に塗り、打ち鳴らして聞かせるのです。

 

その鼓の役割は知識。弥陀の仏体の力と救済の恩恵だけを教えることです。どんどん、噛み砕いて説いて聞かせてくれる、音が仏で、仏が音で。

 

重病人が、耳にその言葉が聞こえたとき、耳まで仏が来ているのです。口で六字を唱えたとき、口から仏が出てきます。心にその教えが届いたとき、心の中に仏が住んでいるのです。

 

何が住んでいるのか、目や鼻のついた仏ではなく、手足がある仏でもありません。宿った仏の姿は、間違いなく我々を救う声一つです。

 

この呼び声が助けてくれるのは、名でも体でも親でもなく、遠くの浄土にいる仏を拝むのではなく、自分自身の中に住んでいる仏です。

 

影を宿して下さった、六字一つの力で。落ち込んでいたこの身が救われ、浄土を目指す身となったのが、往生一定の姿である。

 

次の記事:15.たのむ仏は何れ - 安心の旅 (hatenablog.com)