安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

19.光明は六字なり

 

私が子供の頃、和讃や文を読んで、自分の心の中で思っていました。

 

どうやら私たちが疑問を解消して、一心に阿弥陀仏を信じるとき、西方浄土の仏様が、その光明を放って私たちを導くということです。

 

それを和讃では、『金剛堅固の信心の、定まるときをまちえてぞ、弥陀の心光照護して』と言っています。

 

また、文を読むと、『なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。』と書かれています。

 

私がこれを読んで、私たちが信じる心が生まれない限り、仏様は私たちを導いてくださらないと理解し、大きな誤解をしていました。皆さんの中にも、同じように誤解している方はいないでしょうか。

 

もし阿弥陀如来が、本当にそういう方だったら、どれほど偏狭な仏だと思われることでしょう。よく考えてみてください。今日、この場にこんなに多くの人が集まっています。その中の一人が、初めて真実の信心を得て、信じる心が生まれたとしましょう。

 

そして、阿弥陀如来が気をつけて、すぐに大光明を放って、その人を導くことは素晴らしいことです。

 

しかし、その人の右側にいる人も、左側にいる人も、前にいる人も、後ろにいる人も、すべてを光明から排除してしまうとなると、それは実に偏狭な仏と言わざるを得ません。

 

なぜなら、せっかく光明を放ったのだから、たとえ真実の信心が得られていなくても、前後左右の人々くらいは、光明の中に入れてあげても良いはずです。

 

しかし、光明が小さくて、一度に5人も10人も導くことができないというなら、それは頼りにならない光明です。

 

どんなに多くの生命体でも導くことができる大光明であるなら、信じる生命体だけを導き、信じる心のないものは光明の中に入れないなど、けちな話はやめてほしい。

 

先年、私が水害の慰問活動に赴いた際、ある場所で船を用意して出発しようとするところへ、4、5人の人々が近づいてきました。

 

彼らが向こう岸へ渡る必要があるなら、私の船に乗ってはどうかと提案したところ、皆喜んで乗船しました。私がどうせ船を出すのですから、5人や3人を乗せるくらいは問題ではありませんでした。

 

この精神から考えると、もし私が阿弥陀如来様になったと仮定した場合、このお堂で誰かが頼む人がいたときには、広大な光明を放つ予定の船に5人や10人を乗せるのどころか、お堂の中の人々を全員受け入れてあげたいと思うでしょう。

 

しかし、大慈大悲の如来様が、愛する我々を助けるにあたり、頼む一念があれば受け入れる、それがなければ光明の中には入れないというのは、どうにも理解できない親のようです。

 

子供を背負った女性が参詣して信心を得た場合、背負われている子供を光明の外に放置し、背負った女性だけが光明の中に住むのでしょうか。それならば、阿弥陀如来は、偏屈な仏、けちな仏と呼ばざるを得ません。

 

しかし、阿弥陀様には、このような偏屈さが全くありません。我々凡人が聞く方法に、思わぬ誤解を生じるもので、頼む心に対して不適切な見方をし、歓喜や感謝の心が止まらないのです。

 

残念ながら、いつまで聞いても、一生涯光明の中に入ったか入らないかがわからない。頼む心を持って、それで往生と定めて見ても、他人にはわからない深層の心の中に、私が本当に光明の中に住んでいるのかどうか、疑問を持ち続けているのです。

 

その偏見のある聞き方とは、何なのかと問われれば、以前も詳しく述べた通り、弥陀と衆生が相談し、後世を定めると思い込み、六字を相談の内容と誤解。

 

我々が頼めば弥陀が助け、頼む一念がなければ、たとえ弥陀でも助けられないと、大慈悲の親様をバカにし、頼む心も救う法も、六字の中の意義ということを忘れています。

 

このような偏見のある聞き方に陥り、他力の味がわからないのです。

 

それでも阿弥陀如来の手元には、光明を受け入れる力が確かに存在します。しかし、それを我々が受け取るときは、光明がそのまま届くわけではありません。必ず耳に聞こえる名号を通じて届けてくださるのです。

 

そのことは、御和讃の中に、『光明てらしてたえざれば、不断光仏と名けたり、聞光力のゆえなれば、心不断にて往生す』。と仰せられていて、これを熱心に理解してください。

 

そして、三帖目第二通をご覧ください。『つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば』。と四文字をしっかり理解し、これが弥陀の身から放たれる光明で、私たちを助ける生仏の力であることを示していると理解してください。

 

その阿弥陀仏の助けが、この機会に到着した形は、「南無」と祈る信仰の形象であるために、四帖目の六通では、『そのたのむこころといふは』と述べて、たのまれた有様を明示しています。

 

『すなはちこれ、阿弥陀仏衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。』

 

と仰って、要するに善知識の仲立ちを通じて、六字の名号による摂取の力がある章であり、六字が明るく輝く六字であり、

 

参拝している人々にはたとえ依怙や偏頗があったとしても、一様に六字の光明が届いていますが、耳だけで聞き流し、六字の外で信心と助けを探し回っていたために、今日まで安心もできず、難儀な他力信仰であったのです。

 

さて、まさに今という今は、六字の功績に気づいて、これが親様、仏様、光明の摂取も発願の回向も、名号の六字だったのかと信じられたその時、自分の身がそのままで、落とさない親に出会った時、親に出会わせてもらって見れば、たのみにしてくださいと言われても、たのむ思いは自然と湧き上がる。

 

その湧き上がった思いが、こちらの面倒見であるために、たのまれてたのませてくださる親様の、一つの六字の力で、安心と確定とが明らかになることから、一流の安心の体験は「南無阿弥陀仏」の六字の外にはないと、示してくださった経緯なのです。

 

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