安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

44.真宗の六字尊号

 

前の話から続いて、鎮西の四字の称号と、私たちの教えの六字の称号について説明します。

 

これは、私たちの教えの基本的な部分に触れる重要な問題です。

 

私のような無学で知識の浅い者が話す限りでは、完全に説明することはできません。また、皆さんがこのような深い問題を理解する必要がないと感じるかもしれませんが。

 

それでも、この違いについて一度聞いてみてください。絶対的な他力に依存する真宗と、他力による信心と言いながら、

 

知らず知らずのうちに鎮西の考えに寄り、他力から頼みの心を受け、その頼みの心で助けを求めるという複雑な考えを持ち、最終的に他力から手を借りて助かるという、実に滑稽な話になってしまうのです。

 

皆さんが鎮西や西山と聞いても、まったく関係のない国や地域の話のように感じるかもしれませんが、慧空講師の言葉にも、「元々吉水の一教、水と火のような違いはない」と言われています。

 

西山の善慧房も鎮西の聖光房も、私たちの祖先と共に吉水の禅室で、法然上人の教えを受けた同じ人々です。

 

他宗他門と言うけれども、水と火ほどの違いはないのです。少しの聞き方の違いから、教えが分かれてきただけなのです。

 

今集まった皆さんも、真宗だと思っているかもしれませんが、聞く視点が少し違うだけで、心の中で鎮西だと感じる方もいるかもしれません。だから、しっかりと注意して聞いてください。

 

私たちの先生がよく話していたように、真宗の正しい意味を知りたければ、宗派だけの研究では絶対に理解できません。

 

必ず浄土宗の各教えを比較して研究しなければなりません。そうでなければ、祖師の真意はわからないと言われています。

 

宗内だけにとどまり、頼む一念がなければ済まないと言う人もいますが、それは誤りで、不要と言う人もいます。

 

それは異なる安心と正しい意味で、内輪だけの話で騒いでも、何も意味がありません。

 

鎮西宗が言うように、弥陀の称号は阿弥陀仏の四文字であることは明確です。

 

南無の二文字は必ず衆生から出すべきだと言っていますが、私たちの教えでは六字の称号として弥陀の名前に南無の二文字まで加えます。

 

さらに、衆生の頼みの心まで他力による回向と言い、どこから南無の二字を取り出してそう言うのか、皆さん、よく耳を傾けてこの意味を理解してください。

 

実際に、鎮西宗が言うように、弥陀の名号は阿弥陀仏の四文字で間違いありません。

 

六字の名号というのは経典に説かれていないのです。だから、南無の二字は衆生から付けなければならないと鎮西宗では言いますが、弥陀の名号に限定しては、衆生からの南無の頼みは不要です。

 

阿弥陀仏の四字は、ただの名号ではなく、無量の寿命と光明の徳があります。

 

そして、来る衆生の数だけ、無量の寿命と光明を与える徳があるから、阿弥陀仏無量寿仏、無量光仏とも言われます。

 

他の諸仏も寿命や光明を無量に持っているでしょうが、自分だけの無量の寿命と光明で一切の衆生を無量にすることができないので、無量光仏、無量寿仏と名乗れません。

 

しかし、阿弥陀如来は素晴らしく、無量寿、無量光で一切の衆生にも仕送りができるので、無量寿仏、無量光仏と名乗っています。

 

阿弥陀仏の名号「南無阿弥陀仏」には、すべての生き物に対して恩恵と光、寿命と二つの徳を与える力があるというのが、善導大師の解釈で明らかです。

 

この四字で救われるならば、「南無」という部分を別に願う必要はないでしょう。

 

鎮西の人々はこの四字の価値を理解せず、阿弥陀仏の助けが遠い浄土に存在すると考えています。だから、彼らは「南無阿弥陀仏」と唱え、死に際して阿弥陀仏に迎えられることを願っています。

 

浄土真宗では、阿弥陀仏の助けが西方に存在するものとして信じているわけではありません。この四字自体が、光と寿命の二つの無量の恩恵です。従って、「南無」と願う必要もありません。

 

四字と二字は同じで、二字と四字も同じ。六字にする必要もありません。四字そのままで六字として、南無と願えるのです。

 

観経の「南無阿弥陀仏」も、外見上は悪人からの自力の願いと見えますが、真実は阿弥陀仏の真心からの助けで、「南無」も他力によるものです。

 

この問題の理解は難しいかもしれません。四字と六字の問題は大きな課題で、多くの研究と調査が必要です。

 

鎮西の信仰は、自分からの願いと阿弥陀仏からの助けが分かれています。真宗では、助けそのものが願いで、四字が二字を超え、二字が四字になると理解されます。

 

鎮西の信仰では、願いと助けが別々で、助けられるかどうか不明確です。

 

真宗では、願いと助けが一体で、助けられたから願ったのではなく、願ったから助けられたのではありません。願いと助けが一つであるという理解が求められます。

 

火に触れるという例えで、人々の理解について説明しています。熱いと感じることと火傷することは一体で、深く考えすぎると迷い込むことがあります。

 

また、三義の考え方についても述べており、信仰の深い理解が必要であることを強調しています。

 

最終的に、真宗の信仰の理解には、智慧や世話は不要で、ただ阿弥陀如来に一心一向に頼ることが大切であると説いています。

 

そして、その信仰が完全に一体であることを、二つの詩的なフレーズで強調しています。

 

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