安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

28.弘誓の船と港

 

前回からの話を続けますが、我々が今度この難度海を渡るために頼る弘誓(大誓)の船の本体は、大悲心から来る呼び声です。

 

すなわち、生きとし生ける者を呼び出し乗せる、その呼び声が弘誓の船と言えます。そして、この弘誓の船が到着する場所はどこかと問うれば、それは横浜でも神戸でもなく、耳がその港となります。

 
素晴らしい港をお持ちですね。見渡してみると、大きな港もあれば小さい港もあります。細長い港も、平たい港も、いろいろです。

 

ただ、そこにはけっこう汚れた港も見えますね。ああ、汚れてしまって...そんなに汚れた港では、まったく弘誓の船が着くとは思えません。

 
「何を言っているんですか、私たちは毎晩風呂で石鹸を使って耳を洗っていますよ」

 

私が言っている汚れとは、そういう石鹸で落ちるものではありません。何年も何年も聴き続けてきても、今日まで弘誓の船に乗れなかったのは、耳の中に自力疑心という想いの汚れが、入り口を塞いでしまっていたからです。

 
だから、入れなかったのです。六字の呼び声が通らず、確実性を感じられず、強い確信にならず。

 

自力による意志の汚れで塞がった耳では仕方がありません。だから今日、自力の汚れを取り除く作業を行いましょう。

 

そのままでも大丈夫だと思い、渡してくださる船が六字であることを理解し、弥陀の大悲の誓願を深く信じる一念で。五つの欲望の底へ、六字の呼び声を届けましょう。

 
自分で乗船する手間など不要で、助けにならなければならないと抱きしめられ、救わなければならないと乗り込む。

 

寝ても覚めても大悲の摂取の船の中にいる。煩悩の波が高くても、妄念の風が強くても。届けられた六字の船は動かず、頼るものはこれ一つ、力とするものもこの呼び声。


依存するもの、任せるもの、安心感も確定感も、往生が一定された助け、生活が完成した迎えがない、浄土真宗の信心安心の存在は切符のようなものではない。

 

助けの船に乗る一念に。思案も工夫も必要ない、乗せる六字の力で。一瞬にして現れる信心の相は、凡夫の自力の作業ではありません。

 

南無阿弥陀仏の六字こそが信心の表れと知るべきで、それが教えです。

 

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