安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

21.切符を持って乗り遅れ

 

信心が切符、そして弥陀の助けが列車に例えられると、多くの疑問が生まれます。

 

まず、

第一に、信心の力が失われる。

第二に、私と弥陀の助けが一体となる考え方が成り立たない。

第三に、深く親切な弥陀に対する感謝が失われます。

 

さらに他にも様々な誤解が生まれます。

 

信心がただの列車の切符のようだとすると、信心だけでは救済は叶わないことになります。

 

なぜなら、救済は他力信心の力によって得られるとされていますが、信心だけでは救済が得られないとするなら、その教えが虚偽であるということになり、信心には力がないことを示すからです。

 

皆さん、これを理解できますか?

理解できない人もいるかもしれません。

 

あなたは思うかもしれません、「何を言っているんだ、これは。切符を持ってさえいれば、誰でも旅をすることができる。それなのに、信心の切符を持っていても救済が得られないなんて、何のことだろう?」と。

 

しかし、列車に乗るのは切符だけでは不十分です。試してみてください。列車の駅へ行って、切符を持っていても、列車が来なければどこにも行けません。さらに、列車が来ても乗り遅れてしまえば、やはり行くことはできません。

 

皆さん、これまで信心を切符のように考え、毎日信心の切符を手に入れるため御座の停車場においでになりました。

 

しかし、本当に列車に乗り、弥陀の助けを受けることができるのか、その識別ができていないのではないでしょうか。

 

結局のところ、一生信心の切符を握り続けて、御座の停車場で居眠りして終わるのではないでしょうか。

 

ある笑い文句に、「列車が出ていくときの煙は残るが、残る煙は悩みの種」というのがあります。

 

これを軽視してはいけません。

 

列車が出ていくと私たち自身が残る、つまり地獄へ行く自身が残るとなると、それは大問題です。こうした信心の切符を握り続ける人々が世の中には多いように思えます。

 

信心の切符を確かに握り、それが本当に弥陀の助けを得て、列車に乗ることができるのかどうか、それがわからない限り、私たちはただ信心の切符を握り続けるだけです。

 

そして、その結果として、救済が得られないことになります。

 

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