安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

41.信体と信相

 

一念発起、平生業成のたのみぶりも、金剛というも、堅固というのも、自力を捨てるのも、疑い晴れるというのも、これらの概念が我々の意識上に明確に表れるとしても、それは我々凡夫の心の実質が確かなものに変化するわけではありません。

 

信仰の実態や信念が働く形を理解するためには、空論や抽象的な概念ではなく、具体的な理解が必要です。

 

信仰の本質と形態について考える時、その信仰の本体を取り違えて表象に焦点を当てすぎると、真実から遠ざかることになります。

 

信仰の真実を探求するためには、独自の信仰を持つ必要があります。

 

この問題は複雑で、時には理解が困難であったり、時代遅れで奇妙な議論になることもあります。

 

考え方を深めてみてください。例えば、石に網がかかると、石は落ちなくなります。これは網の力が働いていることを示しており、明らかな事実です。

 

同様に、我々が地獄に堕ちないように、阿弥陀仏の真実が働いているのです。この働きによって、信仰の形態が明らかにされます。

 

ここで、信仰がどのように働いているかを具体的に理解するために、物事の相対性を考えます。

 

石の上に働く網の形、身体の上に働く袈裟の形、意識の上に働く信仰の形など、すべてが互いに関連しています。

 

この六字の働きによって、意識上で働かせることで、無念無想になることはありません。その働き方は多岐にわたり、力、信頼、安堵などをもたらします。

 

この概念をさらに具体的に理解するために、仏教の具象的な仏具を観察します。それらは異なる形を持っていますが、すべて真鍮でできています。

 

同様に、一流の信心も、南無阿弥陀仏の六字の形態に基づいています。

 

この概念を適用すると、信仰が顕れるさまざまな形態を理解できます。例えば、罪福の心、自力、安堵など、異なる思考や状況に応じた信仰の形態が明らかになります。

 

重要なのは、これらの信仰の形態が個別に現れるのではなく、一つの信仰の中にすべて含まれているということです。

 

この理解に基づいて、すべての生き物の救済が阿弥陀仏によってなされると理解できます。

 

結局のところ、真の信心は人々の手によるものではなく、阿弥陀仏の力によって顕れるものであることが明らかです。

 

この理解を深めることは、迷い易い箇所ではありますが、自力と他力の違いを理解するために必要です。

 

自力にもあらず、無念無想でもない、有念有想の縋る思いを起させて、それを意業ではないとする概念は、さらに深く理解するためのものであり、次の部分で詳しく説明しましょう。

 

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