安心の旅

浄土真宗の信心について書いていきます

44.真宗の六字尊号

 

前の話から続いて、鎮西の四字の称号と、私たちの教えの六字の称号について説明します。

 

これは、私たちの教えの基本的な部分に触れる重要な問題です。

 

私のような無学で知識の浅い者が話す限りでは、完全に説明することはできません。また、皆さんがこのような深い問題を理解する必要がないと感じるかもしれませんが。

 

それでも、この違いについて一度聞いてみてください。絶対的な他力に依存する真宗と、他力による信心と言いながら、

 

知らず知らずのうちに鎮西の考えに寄り、他力から頼みの心を受け、その頼みの心で助けを求めるという複雑な考えを持ち、最終的に他力から手を借りて助かるという、実に滑稽な話になってしまうのです。

 

皆さんが鎮西や西山と聞いても、まったく関係のない国や地域の話のように感じるかもしれませんが、慧空講師の言葉にも、「元々吉水の一教、水と火のような違いはない」と言われています。

 

西山の善慧房も鎮西の聖光房も、私たちの祖先と共に吉水の禅室で、法然上人の教えを受けた同じ人々です。

 

他宗他門と言うけれども、水と火ほどの違いはないのです。少しの聞き方の違いから、教えが分かれてきただけなのです。

 

今集まった皆さんも、真宗だと思っているかもしれませんが、聞く視点が少し違うだけで、心の中で鎮西だと感じる方もいるかもしれません。だから、しっかりと注意して聞いてください。

 

私たちの先生がよく話していたように、真宗の正しい意味を知りたければ、宗派だけの研究では絶対に理解できません。

 

必ず浄土宗の各教えを比較して研究しなければなりません。そうでなければ、祖師の真意はわからないと言われています。

 

宗内だけにとどまり、頼む一念がなければ済まないと言う人もいますが、それは誤りで、不要と言う人もいます。

 

それは異なる安心と正しい意味で、内輪だけの話で騒いでも、何も意味がありません。

 

鎮西宗が言うように、弥陀の称号は阿弥陀仏の四文字であることは明確です。

 

南無の二文字は必ず衆生から出すべきだと言っていますが、私たちの教えでは六字の称号として弥陀の名前に南無の二文字まで加えます。

 

さらに、衆生の頼みの心まで他力による回向と言い、どこから南無の二字を取り出してそう言うのか、皆さん、よく耳を傾けてこの意味を理解してください。

 

実際に、鎮西宗が言うように、弥陀の名号は阿弥陀仏の四文字で間違いありません。

 

六字の名号というのは経典に説かれていないのです。だから、南無の二字は衆生から付けなければならないと鎮西宗では言いますが、弥陀の名号に限定しては、衆生からの南無の頼みは不要です。

 

阿弥陀仏の四字は、ただの名号ではなく、無量の寿命と光明の徳があります。

 

そして、来る衆生の数だけ、無量の寿命と光明を与える徳があるから、阿弥陀仏無量寿仏、無量光仏とも言われます。

 

他の諸仏も寿命や光明を無量に持っているでしょうが、自分だけの無量の寿命と光明で一切の衆生を無量にすることができないので、無量光仏、無量寿仏と名乗れません。

 

しかし、阿弥陀如来は素晴らしく、無量寿、無量光で一切の衆生にも仕送りができるので、無量寿仏、無量光仏と名乗っています。

 

阿弥陀仏の名号「南無阿弥陀仏」には、すべての生き物に対して恩恵と光、寿命と二つの徳を与える力があるというのが、善導大師の解釈で明らかです。

 

この四字で救われるならば、「南無」という部分を別に願う必要はないでしょう。

 

鎮西の人々はこの四字の価値を理解せず、阿弥陀仏の助けが遠い浄土に存在すると考えています。だから、彼らは「南無阿弥陀仏」と唱え、死に際して阿弥陀仏に迎えられることを願っています。

 

浄土真宗では、阿弥陀仏の助けが西方に存在するものとして信じているわけではありません。この四字自体が、光と寿命の二つの無量の恩恵です。従って、「南無」と願う必要もありません。

 

四字と二字は同じで、二字と四字も同じ。六字にする必要もありません。四字そのままで六字として、南無と願えるのです。

 

観経の「南無阿弥陀仏」も、外見上は悪人からの自力の願いと見えますが、真実は阿弥陀仏の真心からの助けで、「南無」も他力によるものです。

 

この問題の理解は難しいかもしれません。四字と六字の問題は大きな課題で、多くの研究と調査が必要です。

 

鎮西の信仰は、自分からの願いと阿弥陀仏からの助けが分かれています。真宗では、助けそのものが願いで、四字が二字を超え、二字が四字になると理解されます。

 

鎮西の信仰では、願いと助けが別々で、助けられるかどうか不明確です。

 

真宗では、願いと助けが一体で、助けられたから願ったのではなく、願ったから助けられたのではありません。願いと助けが一つであるという理解が求められます。

 

火に触れるという例えで、人々の理解について説明しています。熱いと感じることと火傷することは一体で、深く考えすぎると迷い込むことがあります。

 

また、三義の考え方についても述べており、信仰の深い理解が必要であることを強調しています。

 

最終的に、真宗の信仰の理解には、智慧や世話は不要で、ただ阿弥陀如来に一心一向に頼ることが大切であると説いています。

 

そして、その信仰が完全に一体であることを、二つの詩的なフレーズで強調しています。

 

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43.鎮西の四字尊号

 

とにかく六字のお助け以外に、頼る手がなくてはならない、たのむ思いがなくてはならないという考えがあるのは、全く六字のお助けを受けていない人の言うことだ。

 

貧しい人の手元に大金が届いた際に、金さえあれば、心配もなくなり安心できる。その安心とは、無理に安心するのではない。言われなくても安心するだろう。

 

自分から出す安心なら、明日にも延ばせるが、届いた金で感じる安心は、自分の勝手に変えられない。これが他力による不壊の信仰である。

 

しかし受け入れる心がなければ、受けたものが現れないと考える方は、実際に受けたものがないのだと言うこと。受け取ったものを求めずに、受けた感じや味わいに努力するのは、全く六字のお力を得られていない、病人のような人だ。

 

少し難しいかもしれないが、鎮西宗と浄土真宗、宗派の違いはどこから来たかを聞いてほしい。その違いは、大体西方浄土の親様のお名前が違うからだ。鎮西宗は四字尊号、浄土真宗は六字尊号とする。

 

この四字尊号と六字尊号の話は、一宗を引っ提げて議論しなければならぬ問題だ。我々のような無学な人間では、十分な説明はできないが、今は重要な意味だけを話そう。天地にも一仏しかない如来様のお名前が違うなんて、不思議なことだ。

 

まず、鎮西宗の言うことを聞くと、「西方浄土の本尊は阿弥陀仏という四字のお名前だ。『南無』は信者からつけるもので、檀那様や医者を頼むようなものだ。

 

何もないものに『南無』と頼むわけがない。子供が欲しい時に地蔵様に『南無』する、目が痛い時に不動明王を頼む。『南無』の二字は『頼みますぞ』の意味。

 

救いがないこの身の後生の重要事に、お助けを求めるから『南無阿弥陀仏』と言う。『南無』の二字は信者からつけたもので、本名は阿弥陀仏の四字だ。浄土真宗では六字の名号で『南無阿弥陀仏』と言っているが、大いなる誤りだ」と鎮西宗は非難する。

 

弥陀のお名前が四字なのか六字なのか戸籍を調べると、鎮西宗の言うことが正しいと思える。戸籍は経典であり、阿弥陀経を読むと「西方に十万億仏土を越えた世界に極楽という土地があり、そこに住む仏様の名前は阿弥陀という」とある。

 

しかし浄土真宗では、弥陀の名号は六字で、『南無』の二字も含まれるという。経典には出ていないその『南無』の二字をどこから持ってくるのか。ここが真宗特有の教えで、絶対他力の信仰の根本である。

 

何卒聞いていただきたい。

 

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42.他力の御手

 

前に話した通り、他の力を借りて、その手にしがみつくという考え方はどこからくるのか理解できない。

 

阿弥陀仏の名を信じて念じることと、その教えを分けて考えるのは間違いだ。信じるならば、助けが与えられる。

 

しかし、自分の心で信じるなら、それは自力となります。この他力による信心で助けを願うという考え方が誤っているのは、阿弥陀仏の助けがすでに与えられているからです。

 

この問題は真宗の教えにおける重要な課題であり、軽く考えてはいけない。

 

以前も詳しく話しましたが、信心を切符に例え、親が用意した船に乗るために切符をもらわなければならないという考え方や、法の教えを受ける心がなければならないという考え方は、他力にしがみつく考え方と同じ誤りです。

 

一つ間違うとどこまでも間違いが広がります。その誤りはあまりにも深刻です。

 

よく考えてみてください。他力の手を借りて、その手にしがみつくことは一体何なのでしょうか。蓮如上人の言葉にあるように、他力とは他の力、他から与えられた力です

 

私が持っているこの数珠は他力です。子供が母親に抱かれる時、抱かれている親の体が他力です。私が数珠を握る上で、数珠から特別に手を出してしがみつく必要はありません。

 

親が抱いている限り、子供は自然にしがみついています。子供が眠っていても泣いていても、しがみついている形は変わりません。親に抱かれているという単純な形がしっかりと現れているのです。

 

このように、他力と自力は一体であり、阿弥陀仏の名前が完全な助け、すなわち親であることを理解することが重要です。

 

その助けと信心がこの身に与えられたならば、助かったと感じるでしょう。

 

法も六字、機も六字、阿弥陀仏への信心も一つで結びついている。たのむも六字、お助けも六字であり、阿弥陀仏から言えば、たのむものを助ける、衆生から言えば、助けをたのむ、というものです。言葉は異なりますが、仕事は一つです。

 

「たのめば助ける」という言葉は、単なる合意ではなく、助けの六字そのものです。この助けの六字が現れると、自力でのたのみが消え、他から与えられた他力の助けが現れます。

 

これは他力の回心のたのみ心であり、他力の手を借りてしがみつくという愚かな解釈ではなく、他から与えられた助け一つが頼まれた形、つかまった形であると理解しなければなりません。

 

三帖目初通の文から見ても、

「ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまいらせて、一念も疑ふ心なくは(二字)、かならずたすけたまふべし(四字)。」

 

と言われて、頼めば必ず助けて下さるというのですが、しかし、その頼む心というのも、自分の力から出るのでもなく、他の力を借りて頼むようなものではありません。四文字の助けが届いたままが、『南無』と頼む信心だということを示して、

次の言葉に、

されば一念帰命の信心の定まるというも(二字)、この摂取の光明にあひたてまつる(四字)時剋をさして、信心の定まるとは申すなり。

と二字即ち四字、四字即ち二字の味わいを知らせて下さいました。そこでいよいよ最後にいたって、

しかれば南無阿弥陀仏といへる行体は

と六字を押さえて、

すなはちわれらが浄土に往生すべきことわりを、この六字にあらはしたまへる御すがたなりと(所信)、いまこそよくはしられて、いよいよありがたくたふとくおぼえはんべれ(能信)

所信も六字、能信も六字であることが明確に伝えられています。

 

さて皆さん、所信と能信の二字、計四字のこと、こんな面倒な話でしょうが、理解できる方もいるでしょうし、理解できない方も多いでしょう。

 

しかし、全体で80通りの文があるだけで、皆さんに面倒をかけようとして書かれたわけではありません。余計な世話を必要とせず、六字で手間なく助かるので、この六字だけで満足するように、非常に親切な勧めであるのです。

 

それで、魚津の講師が『80通りの文は、六字の延書とみなせ』と言われたことが私の耳に残っています。

 

この言葉は本当に忘れてはいけない格言です。文の計量ではなく、全ての聖教とは、ただこの「南無阿弥陀仏」の六字を信じさせるためだと思うべきで、代々の善知識の苦労は、ただこの六字で助かるという勧め以外にはないのです。

 

六字で助かるのなら、形はなくても、これが親であるか仏であるか、名体不離の親様が心に届いている以上、何の不足があるでしょうか。頼んだ形が欲しいなら、「南無阿弥陀仏」が届いています。助かった相を見たいなら、六字の親が来ています。

 

借りた証拠も一本、貸した証拠も一本。借りた証拠と貸した証拠とで証文が二本必要ではありません。ほんの一本の証文が、借りた証拠にもなり、貸した証拠にもなるのです。

 

心の中に届いた六字の証文が、弥陀からすれば、それが助けた証拠で、衆生からすれば、頼んでしまった証拠なのです。

 

助けた証拠も「南無阿弥陀仏」、頼んだ証拠も「南無阿弥陀仏」、失うことのない証拠も「南無阿弥陀仏」。六字一つの助けで満足できたものなら、この手を頼りにする必要なく、強く頼る思いなのです。

 

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41.信体と信相

 

一念発起、平生業成のたのみぶりも、金剛というも、堅固というのも、自力を捨てるのも、疑い晴れるというのも、これらの概念が我々の意識上に明確に表れるとしても、それは我々凡夫の心の実質が確かなものに変化するわけではありません。

 

信仰の実態や信念が働く形を理解するためには、空論や抽象的な概念ではなく、具体的な理解が必要です。

 

信仰の本質と形態について考える時、その信仰の本体を取り違えて表象に焦点を当てすぎると、真実から遠ざかることになります。

 

信仰の真実を探求するためには、独自の信仰を持つ必要があります。

 

この問題は複雑で、時には理解が困難であったり、時代遅れで奇妙な議論になることもあります。

 

考え方を深めてみてください。例えば、石に網がかかると、石は落ちなくなります。これは網の力が働いていることを示しており、明らかな事実です。

 

同様に、我々が地獄に堕ちないように、阿弥陀仏の真実が働いているのです。この働きによって、信仰の形態が明らかにされます。

 

ここで、信仰がどのように働いているかを具体的に理解するために、物事の相対性を考えます。

 

石の上に働く網の形、身体の上に働く袈裟の形、意識の上に働く信仰の形など、すべてが互いに関連しています。

 

この六字の働きによって、意識上で働かせることで、無念無想になることはありません。その働き方は多岐にわたり、力、信頼、安堵などをもたらします。

 

この概念をさらに具体的に理解するために、仏教の具象的な仏具を観察します。それらは異なる形を持っていますが、すべて真鍮でできています。

 

同様に、一流の信心も、南無阿弥陀仏の六字の形態に基づいています。

 

この概念を適用すると、信仰が顕れるさまざまな形態を理解できます。例えば、罪福の心、自力、安堵など、異なる思考や状況に応じた信仰の形態が明らかになります。

 

重要なのは、これらの信仰の形態が個別に現れるのではなく、一つの信仰の中にすべて含まれているということです。

 

この理解に基づいて、すべての生き物の救済が阿弥陀仏によってなされると理解できます。

 

結局のところ、真の信心は人々の手によるものではなく、阿弥陀仏の力によって顕れるものであることが明らかです。

 

この理解を深めることは、迷い易い箇所ではありますが、自力と他力の違いを理解するために必要です。

 

自力にもあらず、無念無想でもない、有念有想の縋る思いを起させて、それを意業ではないとする概念は、さらに深く理解するためのものであり、次の部分で詳しく説明しましょう。

 

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40.網相と信相

 

私たちの流派で説く他力信仰の理解は、井戸に一本の縄を下げるような単純で、掴んだら上がり、放したら落ちるような危ういものではありません。

 

蓮如上人の言葉にも、迷い悩む衆生を救う網や、西方浄土へと引き寄せる釣り針について触れられています。この一本の縄は釣り針が必要で、摂取する力が働いているため、確かに網に例えられるのは明らかなことです。

 

その摂取する力を、六字の名号に込め、私たちが行とするものです。これは十七願の約束で、十方の衆生である私たちが名号を聞いて信仰し喜ぶ一念で、至心に導かれるというものです。

 

地獄に堕ちる運命から、往生を果たす身となるのが十八願の意図で、先に説明した通りです。

 

実際、面白いエピソードもあります。数年前、金沢で一ヶ月ほど布教していた際に、ある仲間が私の部屋に来て、「あなたの説教は法が強すぎる」と言いました。

 

私は「法が強すぎることが悪いのか?お前は自分の努力で往生するつもりなのか?」と尋ねました。

 

彼は、「法が強いことが悪いわけではないが、あなたの説教にはもう少し説得力がほしい。参拝者たちが安心できない」と言いました。

 

私は、「では、これから強めて説教しよう。私は法が強いほど、こちらの世話がいらないと思うが、届いていなければ役に立たない。逃げても逃がさない力が私たちに届いているのだから、それに勝る力はないだろう。

 

だからこそ、自力を捨て、一心に信じ、余計なことを考えずに、与えられた信仰を深めようとしよう。これを注意して聞いてください」と述べました。

 

先に出た甲蔵さんの話も同じような意見で、他から与えられた力が強すぎると感じているようでした。しかし、網のような絶対の力に頼りすぎることで、真の信心が立たないという問題が起きることもあると指摘されました。

 

しかし、この譬喩から考えても、信心の真相は容易に立つものではありません。網が掛かったものが心のない物体であれば、信心が宿る理由がありません。

 

しかし、その網が掛かった形は明確にあり、誰もがその形を認識できるでしょう。

 

私の身にこの袈裟がかかっているように、この袈裟は他力の寄進のもので、袈裟そのものが使用される形が、袈裟を受け取った証であり、その形を袈裟の形とでも言いましょう。

 

寄進されたものがしっかりと受け取られ、喜んで使われているのであれば、それはそのままの形で現れるのです。

 

この祭壇の中に敷かれている布も同様で、寄進の札から高木氏の寄付であることが分かります。その寄付は、内陣で実際に使われており、これを本堂内の敷物の形と言えます。

 

しかし、布が寄付されても、寺の住職が受け取りたいと思わなければ、もらったとは言えません。袈裟を身につけていても、喜びの心がなければ、得た形が見えないと言われるかもしれません。それはさらに理解しにくいことになってしまいます。

 

網の例えでも同じです。人間が網に救われたと言っても、心のある人間に、心のない網がかかるわけだから、その網にかかる心はどうなのかという問題が生じます。

 

さらに、心のない石に、心のない網がかかると仮定して考えてみてほしい。心のない石には信じるべきものも喜びも哀しみもなく、まさに無念無想です。

 

しかし、網がかかったことで、その形がはっきりと見える。この網がかかったそのままの形が、石の沈まない形、依存する形、すべての形が網そのものの力から現れることは誰にも理解できるでしょう。

 

この感じを信仰に置き換えて考えてみてください。受け取る方が石のようなものではないし、送られてくる品が網のようなものではない。

 

仏の無限の誠意から心に届いたものは、無念無想になるはずがない。思うのは自然なことで、思う心が起きるのも、意図して思うのではなく、自然に思うことです。

 

その自然に思う形は、確かに変わることがありません。網は切れることがあるかもしれないが、六字の呪文は切れることがないのです。

 

無限の利益をもたらす六字の力が心に届いているのだから、何も不足することはありません。全てが自然に進んでいく中で、真心から頼まれ、頼まれた信頼は誰にも疑われないもので、断ち切れないものとなります。

 

こちらが決めた信ではなく、親に頼まれて力となっているもの。親に抱かれた子供の心に、人が干渉すればするほど、信頼の心は増すのです。

 

何も障ることがなく、たのみの心は増していく。金剛不壊の信の形は、人に尋ねる必要もなく、胸に溢れるものである。

 

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39.寝て居ては網にかからぬ

 

さて皆さん、今の話をよく聞いてください。これは絶対にあいまいな話ではありません。このあたりの皆さんにも、同じような疑問があることでしょう。

 

まず第一に、網で救われるなら、家の中で寝ていても助かるだろう。

 

第二に、網に入れられると、一心の信仰が足りないから、心安らかになる。

 

そして第三に、他の力を借りて、その手でしがみつかなければならないようなおかしな議論になる。

 

これらの問題は、他の力の場所を知らずに、言葉や例えだけで、安心を求めようとするから、こういった間違いが起こるのだ。

 

全体的に網や縄に例えると、何に例えるのかと聞けば、実際は弥陀の名号六字以外に例える物はない。この六字の価値が分かり、三つの願いが味わえるようになる。

 

まず六字を細い藤のつるぐらいに見るのが十九の願で、生死の井戸から上るには、六字の藤のつる一本では頼りにならない。菩提心を発し、善根功徳の支えを作らなければならない。

 

この六字は細い藤のつるほどのものではない。善本功徳の丈夫な縄と見るのが二十の願。縄は丈夫で切れないが、しがみつかなければ上れない。名号の縄を離さずにしがみつかなければならない。

 

しかし第十八願では、この名号が救いの網だと思うと、こちらでしがみつく必要はない。他力による網が届いて、往生に失敗することはない。科学的にも物理的にも理解できることで、他方からの力が強ければ強いほど、こちらの力は必要ない。

 

例えば井戸に一本の縄を下げられたとして、その縄に強い力があって触れると吸い付けられるなら、他力によるものとなる。

 

今の話のように、しがみつけば上る、離せば落ちるという差別があるようなことでは、縄そのものの力はもはやない。

 

皆さん、この「南無阿弥陀仏」の六字に、救いの光の不思議な力があることは、先日お話ししました。この力のあるものは、確かに網に例えられるものです。

 

しかもこの網は、極楽まで引っ張る力のある不思議な網で、六字そのものです。六字が網として見れば、寺に参らず家で寝ていても聞くことができるというようなことはない。

 

糸で作った網でなく、金で作ったものでもない、呼び寄せる六字が救いの網で、参って聞かなければ届かない。嫌な参りも、他力に引っ張られて助けられ、他力で参るとは、どうした不思議なことか。

 

感謝の念仏も、他力の促進によるものだ。

 

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38.網派と縄派

 

この話は私が体験したことです。

 

新潟県西蒲原郡和納村で、電車の時間を待っている際、久しぶりに竹内という友人の家を訪れました。

 

その時、家族も隣近所の人々も大いに喜んで、さっそく他の友人たちも集まってきました。

 

北国らしく、囲炉裏を囲んで挨拶を交わしたところ、竹内の母親が突然私に言いました。

 

「この村では最近、法義が二派に分かれて問題になっているんですよ」

「二派って、何派と何派なんだ?」

「はい、網派と縄派です」

「それは珍しい。どうしてそうなったの?」

「春に向こうの方が説教に出て、井戸に縄を下ろしてもらって、それにつかまって上がるのは、半自力と半他力だと言いました。当派は網で助け上げるのでなければ、絶対他力の第十八願とは言えないとされたんです。それから二派に分かれました」

「ふうん、私が火の元か。それは気の毒だ。でも、あなたたちは何派なの?」

「私たちは皆、網派です。甲蔵さんが縄派のリーダーです」

「そうか、甲蔵老人は網で引き上げられるのは他力すぎて面白くないと思うのか」

「甲蔵さんの言うには、網にかかっていくようなことでは、信心も安心もいらないということです。寺参りも何もせずに、網にかかって連れて行かれるというのは、自分の努力が必要ない。甲蔵さんは私たちに、早く網から出て縄につかまるようにと、しきりに勧めます」

「親切な老人だね。でも、もし縄につかまってみるのはどうだろう?」

「私たちは縄につかまる力がないので、どうして網から出られるでしょう。ところで、今年の夏、乙吉さんの息子の丙市が井戸に落ちたんです。急いで釣瓶を下げたら、丙市がそれにつかまりました。引き上げる途中で再び落ちたんです。見てください、自力でつかんだ手が離れて落ちたんです。私たちは勝ち誇りました」

「それはよかったけど、丙市はどうしたの?」

「仕方なく、急いで梯子を下げて、父親が下りて抱えてきました」

「ほんとうに他力だけで丙市は助かったんだね」

「はい、自力でつかむことでは間に合わないという、現実の証拠を見せてもらいました。これも仏様のご計らいで、私たちは大勝利になりました」

「それは素晴らしい。じゃあ、縄派のリーダーは降伏したのかな?」

「いえ、甲蔵さんはまだ負けていません」

「それはどうしてなの?勝ち負けが混ざっているなんて、珍しい話だね。」

「甲蔵さんの言うには、丙市が自分でつかんだから途中で落ちたということです。当派は他力回向で、仏様からもらった手でつかむので、一度つかんだら決して落ちないと言います」

「仏様からもらった手でつかむとは驚くべき説明だ。でも、網と縄というのは実際には何にたとえるのか、それは理解しているのか?」

「その部分は正直わかりません」

「おばあさん、これらは何の意味もないことです。実際には何が何だかわからないで、網がよいのか縄がよいのかと争っているのは無駄なことです。まるで盲人のたたき合い、子供の喧嘩のようなもの。大切なことをないがしろにして、法義をこの世の慰め物にしているのは、もったいないことです。甲蔵や乙吉はどうでもよいけれど、一人ひとりが真剣に考え、しっかりと聞いてください」

 

電車の時間が許す限り、こんな話をしたことがありました。

 

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